penser 2

仏作文の宿題(動詞のリストをもらい、それらを使って現在形や複合過去などで自由に作文)を先生に添削してもらったものをアップ。3〜4月に書いたものが多いです。


J'ai pensé à Josseline dans un café hier après-midi.
Une femme à côté de moi a commencé à téléphoner à son amie "Josseline".


「昨日の午後、あるカフェでジョスリーンのことを考えてた。
隣りの席の女性が友だちに電話をかけ始めて、その友だちの名前がなんと『ジョスリーン』だったんだ。」

カフェは建物だから"à"ではなく"dans"の方が良い。
près de moi 近くの
à côté de moi 隣りの

母国語の「隠された了解事項」について

「Du côté d'Octobrouët 10月の書き物の国の方へ」の番外編で、今年の2月25日頃の書き物です。


外国語を話すとき、書くとき、初級者は特に、パパッと辞書で調べてわりかし単純に言葉を記号的にあてはめて文を作ることがあると思います。そういうやり方をしても、文法的に間違いのない「正しい文章」を私たちは構築出来たりする。
それに対して、
「その言い回しはしないよ」
「その言い方だとまるで貴族のお姫様みたいだよ」
「辞書的な意味だけで言えば、その動詞で良さそうだけど、こういうとき、うちらはこっちの動詞を使うよ」
ネイティブがそんな風に教えてくれることがあるでしょう。
また、外国から来た日本語学習者に、私たちがそういうアドバイスをおくることもあるでしょう。
そんなとき、言語が人間の営みと共に、まるで「生きている」かのように感じることがあります。
そういう慣習的なこと、ひとつひとつの言葉が独自のコンテクストを求める、または文脈が自らにピッタリとマッチする(ときにはたった一つの)言葉を呼び出すということ。言葉が私たちに「こっちですよ〜」と誘導・要求しているようにも思える。そういうとき、そこには私たちがふだん意識することのない、私たちの何かが表れているのではないだろうか。
それを意識してみるということには、
ヨガのストレッチでハム・ストリングスを伸ばすような意味以外にも、何かがあるのではないか、と。
(別の言い方をすれば、ハム・ストリングスを伸ばすことには、私たちが普段考えるよりも、大事な意味があるのではないかということ。)
そこに現れるのは、ある意味、(集合的な)私たちそのものの場合もあるのではないだろうか。
ある言語圏の了解事項=ルールの中には、単純な逐語的記号的な言葉のあてはめ(ネットの機械翻訳にような)では収まりきらない、長い時間をかけてその言語圏の中で作り上げ、特別意識しなくても自然に口にのぼるようになるまでに、慣れ親しんで来たものが多数あります。日常会話で使用する、ほぼすべての言葉が実はそうでしょう。
慣れ親しんで来たものだからこそ、明らかに「間違った使い方」がなされない限りは、無意識的な使用を続けることになる。
「わたし」という語だってそうです。「たしわ」ではなく「わたし」は「わたし」でなくてはならない。では、「わたし」ってなんなんだ、どうして「わ」「た」「し」なのだろう? 「わ」ってなんだ?なんで「わ」は「わ」なんだ? などなど。
ただ、ここで私が話題にしているのは、一つの一つの語についての語源的な研究というより(それもとても面白くて重要なことです)、コンテクストによってある言葉使いが絶対的に選ばれるということを、普段わたしたちは意識せずに行っているということです。言語圏、民族性、地域、国家。そうした共同体において、こうした「選択」「了解事項」は、普段はその言語の使用者には「隠されている」ように思えることが、面白くて興味深いということなのです。「忘れてしまっている」というか。
他の言語圏から来た学習者が、あるコンテクスト上で、文法的には正しいけども「使われていない」言い回しをするとき、普段意識していないわたしたちの言語の癖、言語的な癖、慣れ親しんだ言語によって選ばされていた癖が垣間見えるのです。
もちろんそういった、ある言語圏における「了解事項」「癖」を、私は単純に批判しているわけではありません。むしろそうしたものは、人間にとって、ありがたいことなのかも知れないのですから。
そういったことがとにかく面白いと感じるのです。
言葉に対するこうしたものの見方が、ファシズムや破壊に対する予防措置になり、社会の安定と継続、平和と豊かさ、個人の幸せの拡大に繋がることを強く信じています。また、そうしていくのが良いのです。
地球上にはたくさんの異なる言語圏があります。そのいずれにも「隠された了解事項」があるはずです。
それぞれの人間が、たくさんの「わたし」が、興味を持った言語とその文化や共同体のあり様を互いに学び合う。そうすることでもわたしたちは鏡になれるのです。

montrer 1

Il montre un vieux pont vert marin du doigt,
et dit avec une expression distraite après surprise
: <>
Et il regarde le pont et mon visage tour à tour.


「彼はブルー・グリーンの古い橋を指差し、驚きの後の呆然とした表情で言う。
『そう、彼女は確かにあそこにいた』
そして彼はその橋と私の顔を交互に見る。」


最初から英語とフランス語で考えて書いた。ちょっと長めの続き物か。"un vieux pont"の不定冠詞"un"は間違えなかった。最初 "après une surprise"と書いたのだが、それだとまるでプレゼントとかのサプライズのように受け取られかねないということで、"après"の後の冠詞なしパターンに。adv.副詞は活用される動詞のあと。

penser 1

Quand elle mange ce chocolat, elle pense toujours à son père mort.

「そのチョコレートを食べると、彼女はいつも、亡くなったお父さんのことを考える。」

最初、"le chocolat"としたのですが、初めて出て来るものだからやっぱり article défini 定冠詞ではないと。自分が言うところの、「仏語の冠詞問題」です。
話の中でチョコのメーカーが決まっているのであるなら、"ce chocolat"が良いとのこと。

超眠い中、急いでアップしてたらスペルミスしてて、気づいてあわてて訂正した。

rester 1

仏作文の宿題(動詞のリストをもらい、それらを使って現在形や複合過去などで自由に作文)を先生に添削してもらったものをアップ。

Seules les pierres restent.

この文は自分が最初に書いたままで、先生からOKをもらいました。
英語で言えば "Only the stones remain." Robyn Hitchcockの曲名でもある。
古代遺跡などで石で組まれたものだけが後世まで残る、というような意味。例えば、ストーンヘンジやエフェソスなど。