死とワームホール

走って森を横断する。
銀色の繭のような、見知らぬ軍隊のテントのような、今まで見たこともないものの間をすり抜けていく。
「おい、早くしろ、見張りも飯炊き女もみんな始末したんだ。きっと追いかけてくるぞ」
前を行く男がスペイン語?で言ったようだ。飯炊き女ってなんだ? なんのことだ?
前髪の毛先が目に入って痛い。汗が首を伝い、白かったシャツは灰色で、何度も濡れて何度も陽光で乾いた。水を飲みたい。できれば電解質の、吸収のよいやつを。
足下を注意して走る。木の根や折れた枝に足を取られないように。
ハープのアルペジオ、駆け上がり降りてくる。ティンパニがベースのように音程をつける。
滝の音がかぶさる。小さい木製のパーカッションを大勢で小刻みに鳴らす音も。
だがそのうちそれらの気配も、遠ざかっていく、不自然なほど急に。
水が飲みたい。どこかに真水はないのか。
また銀色の破片が落ちている。今度は焦げ臭い、なにか毒性のある金属かなにかが混じったような。その方向にこれ以上、近づきたくないと身体が警告してくる。
足が痛い。足首と膝。だがここで止まるわけにはいかない。
ただならぬ雰囲気の草原に分け入る。何か大きなものがこすりとったように、地面にひっかき傷がある。そのライン上の草も土もほじくり返されている。あたり一面、大量の破片。何かの機械の一部というより、オブジェ、と言っても人間の叫びが注入されているようなのじゃなく、事務的で冷たくて、目的がはっきり決まっているのだが、それがわれわれには皆目見当もつかないというような。
いやになってくる。こんなものと関わり合いになるなんて。
だが不平を言ったり、否定的なイメージを弄んでる余裕はないはずだ。
草原を抜けたあたりで空を見上げる。穴があいているんじゃないか。そうじゃないか。
地面と線対称に。俺は横になる。真横になってそのまままた走っていく。
どうしてって、この状況ではそうするしかないからだ。こんなタイミングで停滞することは、生き物にとって致命的に間抜けなことに思えるからだよ。
走って行く俺を土から巻き上げられたミミズが追い抜いて行く。俺はミミズの結わいてある空間を見失わないようにするしかない。「見失っても気にするな」と自分に話しかける。
ポケットにまだ箱をもっているだろうか。スイッチは直っているだろうか。
太陽や天の川、北斗七星。きみが歌っていた「死とワーム・ホール」っていうバラッド、出だしはどんなだっけ? 思い出せるだろうか、あの歌、初めてウィスキーをおいしいと思えたときのような、意外な感じの歌い出しだったんだよな。



目を醒ます。岩陰に寝転んでいる。午前中の雰囲気。真水の沢を探しに立ち上がる。
それは見つかる。歩くことがうれしい。
何かが消滅している。自分の中の何か。小川から上がり植え込みに戻る。そこに小さな、とても小さな町のジオラマが出来ている。プラ板と木片を削り彩色したローマのような街区が、シカゴのように整然と土の上に敷き詰められていた。最初よく見えなくて、その一部を踏み壊してしまった。
そのなくしたものっていうのは、以前はとても大事なものに思えたのだけれど、今にして思うとむしろそれが自分を損ない、汚し、現実の見方のスペクトルを狭く制限していたのだとはっきりとわかる。そんな何か。いらない邪気。自分をちっぽけな存在へと阻害する何か。
だからといって俺は何も忘れていない。何も大事なものをなくしたというわけではない。
俺は双眼鏡を持っている。倍率は12倍だ。
樹上の猿や毒蛇、げっ歯類を観察しながら崖のあたりの煙を見るのに、こんなに便利なものはない。
夜明け的な気配だけを頼りに、価値ある出会いの待つ方角を、松ヤニのついた指で指し示す。
お決まりの凹んだアルマイトカップ、消したばかりの焚き火跡。
二時の方角から、何人かの声がかすかに。歌のようだ。歌詞は聞きなれない外国語だ。
その歌声、二人の女の子の声。どこかの落ち着いた夜の高層アパートメントのベランダで、仲の良い友だち同士が互いの心を確かめ合って、今の自分たちの若さ、幸せ、ぬくもりを、不安や攻撃欲よりも大きくしていくのも実は目的なのだとばかりに、夜空に町に子を慈しむ親たちに、友人にお菓子に花束やみつばちに、刺繍にピスタチオに安毛布の肌触りに、響かせ届けとばかりに、小声で息を合わせ微笑みながら、いつまでも夜が更けるまで歌い続けるときの声音だ。
俺もとっさに「最後のラジオが終わっても、移ろいに動じない唯一の場所そこからの」と歌い継いで、声がした方角に少し近づき気配を探る。いつのまにか着けていたヒップ・バッグから、ポータブル・レコーダーの形をしたものを無意識に取り出す。沢の音、ちょろちょろと不規則な小さい水音。
しばらくそうやって佇んでいたら、口の中に粥の匂いが広がっていった。雲の影は速く、目を閉じると夜の街角。
三匹の蝶が螺旋を描き、陽光が浸透する、墓地のように明るい胸元を見る。